すばらしき、我が人生。
我が人生。
生まれは下島。
おおくら団地。
なぜ大蔵かの由来は知らない。
決して我が家は金持ちでは無いが、バイタリティ溢れる親父と堅実で石橋を叩いて渡る母を持つ、長男に宮沢けいすけは生まれた。
保育園時代、かぎっ子でいじめられっこだった。
いつも、親の仕事が忙しくて保育園でも最後まで残っていた。
帰っておやつを弟と7時に食べる。
夕食は8時。
礼儀を重んじて、堅気な親父は気性も荒かった。
よく叱られた。
小学校に入り、いじめられっこから脱出。
威張る奴らと戦っていた。
今、覚えているのはいじめている奴を見つけては、喧嘩を売っていた。 そんな小学校時代だから、先生には目を付けられた。
俺の席だけ廊下にあるなんてこともよくあった。
けれど、先生によっては物凄く可愛がってくれた。
そういえば、小学校時代、母親が教員として同じ学校にいた。
俺の成績も付けたことがあった。
律儀な母(音楽の教師)はいくらがんばっても成績はいつも3.
学校内で母ちゃんと呼ぶと怒られた。
中学に入って、やったことは友達と毎月海に集まって焚き火をしながら一晩語る。ちょうど映画スタンドバイミーが流行った頃だった。
5人いた仲間。
誰が映画の中では誰だと言って、あだ名を付けた。
その頃の友人で今でもそのあだ名を使ってい友人がいる。
俺の仲間はみんな高校に進学しなかった。
3年になり、俺は高校に進学するために塾に通い、連れが変わった。
南高校に入学。
それから、中学のやんちゃな連れとは連絡を取らなくなった。
高校に入って、サーフィンにであった。
はじめは大人がやる遊びだと思っていたが、大人びた友人が誘ってくれて高校1年ではじめた。
とりあえずは、女の子にもてるだろう。
きっかけはみんな同じだ。
そして、また高校でも多くの仲間に恵まれる。
俺の一番の取り柄は、グループを作らないで、多くの奴らと接する事が出来ること。
けれど、最も濃いメンバーの数人は学校を辞めてしまった。
中学と同じように、海に泊まって語り合って、明け方海に入る。
サーフィンがうまくも無いし、道具もろくに無かったが、最高に楽しかった。
今思えば、俺の友人は社会的にいわれる、優等生ではなかった。
けれど、それぞれの思いがあり、人間らしく生きている。
仕事でがんばって、今では20人を使う社長だったり、一流企業の社員、海外に家を持つなど様々だ。
人は何が正しくて、何が悪いのか。
本人にしかわからないことだから。
決して「こうあるべきだ」と思わないで欲しい。
あなたという人は、他には居ないから。
高校3年。
サーフィンが上手くも無いくせに、友人とともに少ない金を持ってインドネシアに旅に出る。
よく、1ヶ月も行けたものだ。
卒業後は、上記のことをきっかけに海外に出たいと思い、仕事をした。
海がいける飲み屋で働いた。
俺が居るからという理由で、静岡でも一番お客が入ってくれた。
うれしかった。
金を貯めて、オーストラリアに渡る。
とりあえず、半年だったか。
住んでいるユースホステルの手伝い、便所掃除をしながら海に通っていた。
ブリスベンから南に2時間のバイロンベイに住んでいた。
日本人が居なく、田舎町で自然豊かな土地だった。
サーフィンと自然と戯れ、海の中で時にサメと隣のオージーが戯れることもあった。
半年の後の帰国後、運送業に入り、日本全国津々浦々の旅。
家に帰らず、とにかく金を貯めた。
トラックがわが家。
運送屋さんは大変です。
体力と眠気との戦い。
そして貯めた金を持ってインドネシアにまた通いだす。
ここで、年を追う毎に進む環境破壊を目の当たりにした。
本当にこのままの社会でいいのか?
つづく
生まれは下島。
おおくら団地。
なぜ大蔵かの由来は知らない。
決して我が家は金持ちでは無いが、バイタリティ溢れる親父と堅実で石橋を叩いて渡る母を持つ、長男に宮沢けいすけは生まれた。
保育園時代、かぎっ子でいじめられっこだった。
いつも、親の仕事が忙しくて保育園でも最後まで残っていた。
帰っておやつを弟と7時に食べる。
夕食は8時。
礼儀を重んじて、堅気な親父は気性も荒かった。
よく叱られた。
小学校に入り、いじめられっこから脱出。
威張る奴らと戦っていた。
今、覚えているのはいじめている奴を見つけては、喧嘩を売っていた。 そんな小学校時代だから、先生には目を付けられた。
俺の席だけ廊下にあるなんてこともよくあった。
けれど、先生によっては物凄く可愛がってくれた。
そういえば、小学校時代、母親が教員として同じ学校にいた。
俺の成績も付けたことがあった。
律儀な母(音楽の教師)はいくらがんばっても成績はいつも3.
学校内で母ちゃんと呼ぶと怒られた。
中学に入って、やったことは友達と毎月海に集まって焚き火をしながら一晩語る。ちょうど映画スタンドバイミーが流行った頃だった。
5人いた仲間。
誰が映画の中では誰だと言って、あだ名を付けた。
その頃の友人で今でもそのあだ名を使ってい友人がいる。
俺の仲間はみんな高校に進学しなかった。
3年になり、俺は高校に進学するために塾に通い、連れが変わった。
南高校に入学。
それから、中学のやんちゃな連れとは連絡を取らなくなった。
高校に入って、サーフィンにであった。
はじめは大人がやる遊びだと思っていたが、大人びた友人が誘ってくれて高校1年ではじめた。
とりあえずは、女の子にもてるだろう。
きっかけはみんな同じだ。
そして、また高校でも多くの仲間に恵まれる。
俺の一番の取り柄は、グループを作らないで、多くの奴らと接する事が出来ること。
けれど、最も濃いメンバーの数人は学校を辞めてしまった。
中学と同じように、海に泊まって語り合って、明け方海に入る。
サーフィンがうまくも無いし、道具もろくに無かったが、最高に楽しかった。
今思えば、俺の友人は社会的にいわれる、優等生ではなかった。
けれど、それぞれの思いがあり、人間らしく生きている。
仕事でがんばって、今では20人を使う社長だったり、一流企業の社員、海外に家を持つなど様々だ。
人は何が正しくて、何が悪いのか。
本人にしかわからないことだから。
決して「こうあるべきだ」と思わないで欲しい。
あなたという人は、他には居ないから。
高校3年。
サーフィンが上手くも無いくせに、友人とともに少ない金を持ってインドネシアに旅に出る。
よく、1ヶ月も行けたものだ。
卒業後は、上記のことをきっかけに海外に出たいと思い、仕事をした。
海がいける飲み屋で働いた。
俺が居るからという理由で、静岡でも一番お客が入ってくれた。
うれしかった。
金を貯めて、オーストラリアに渡る。
とりあえず、半年だったか。
住んでいるユースホステルの手伝い、便所掃除をしながら海に通っていた。
ブリスベンから南に2時間のバイロンベイに住んでいた。
日本人が居なく、田舎町で自然豊かな土地だった。
サーフィンと自然と戯れ、海の中で時にサメと隣のオージーが戯れることもあった。
半年の後の帰国後、運送業に入り、日本全国津々浦々の旅。
家に帰らず、とにかく金を貯めた。
トラックがわが家。
運送屋さんは大変です。
体力と眠気との戦い。
そして貯めた金を持ってインドネシアにまた通いだす。
ここで、年を追う毎に進む環境破壊を目の当たりにした。
本当にこのままの社会でいいのか?
つづく
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